タイガー計算器のあゆみ その1



明治45年9月大阪府西成郡豊崎町南浜で営業していた大本鉄鋼所は、好景気の大波に乗って消化しきれぬ程の注文に忙殺されていた。  
見積のためには設計図に沿って原材料費、労務費、その他諸経費などの原価を算定するため「簡単に計算する機械」を作ろうと、大阪府西成郡鷺洲村海老江に工場を新設、移転すると共に試作品の研究に着手した。


   昭和2年当時の本社工場(海老江)


以来、4年5ヶ月多額の経費を投じ、工場を総動員して大正12年漸く完成した。
第一号計算器は発明者大本寅治郎の「寅」をとって「虎印計算器」と命名された。
計算器の発明は完成したが、発明に没頭した4年5ヶ月の間、得意先からの注文を獲得する余裕をなくし、経営を挽回するには困難な状況に追いやられ、従来の業種を変更し、計算器を製造販売することを専業 ここにわが社の歴史
が始まった。

                                  創業者 大本寅治郎



当時としては周到な需要調査を行ない、自信をもって発明に着手したにもかかわらず、一流事務用器具商の「売れない」という予言は的中し、市場を獲得することは困難をきわめた。「和製はすぐ壊れるからだめ」という国産品に対する不信の念がもっとも大きな原因であることを知った。そこで「虎印」を「TIGER BRAND」に変え、舶来品として売ってみることとした。


    昭和7年当時の本社工場
                                      

この苦策は想像以上に巧を奏し、虎印と同一ではないかとの不信の念を抱かれたこともあったが、販売員門出の第一日目に、240円で一台販売することが出来た。






販売面では勿論の事、製造部門においても品質向上のための努力が続けられた。
大正13年3月 改良を重ねた3台がすぐさま呉海軍工廠へ1台545円の価格で納入された。



   大正13年当時の計算器



やがて計算器が世に出る機会が到来した。
関東大震災後、東京復興の機運がみなぎり大建造物、大工場の建設が始められた。
鉄筋・鉄骨造の建築物や大工事には強度その他の計算を必要とし、しかも算盤や筆算では間に合わず大量の計算器が必要と
される。
                                        昭和2年当時の計算器


京浜地区の事務用器具商が外国計算機を大量にしかも無税で輸入することを政府に要請した。猛運動の結果、この要望は政府を動かし各国の計算機が続々と入っ
て来た。




    大正15年当時の新聞広告



当時タイガー計算器は発明したものが完成したばかりで世間に知られていないのと、大量生産による無税の外国品に比べて価格も高く、しかも和製は一般に信用がない。販売戦には敗退を余儀なくされるであろうと悲観的な見方が強かった。





ところが事態は当初の目算と異なり、輸入品も全く売れなかった。このことから計算機の輸入は途絶えてしまった。
その後輸入商社の猛宣伝によって計算機の便利さが官公庁方面に知られ、需要が高まったが
既に外国品は販売されておらず計算機が欲しければタイガーを買う他なかったのである。




昭和5年5月
個人経営「タイガー計算器製作所」を資本金40万円で「タイガー計算器株式会社」設立本社を大阪市西淀川区海老江4丁目に置き、東京・札幌・仙台・名古屋・広島・福岡・京城・大連・台北各地に出張所を設けた

昭和6年
商工省から工業奨励金として、研究費8千円を下附される。
この時商工省が持っていた研究奨励金の総予算は1万円 タイガーが破格の奨励金を下附加されたことが分かる。

昭和12年7月
電動式計算器の研究が完成し、特許権取得
特許91504号「廻転計算器ニ於ケル廻転表示ノ桁送リ装置」
特許91708号「廻転計算器ニ於ケル廻転表示輪ノ廻転装置」
イギリス・ドイツ・アメリカ各国でも特許権を与えられる

昭和14年4月
ニューヨーク・サンフランシスコで開催された万国博覧会に出品
米国業界の絶賛を博し、国際的地位を獲得した
これは商工省より命ぜられ、出展と共に約半年間事務用機械器具工場の見学と企業経営形態の視察を行なった

昭和15年10月
タイガー計算器の販売を専業する「タイガー計算器販売株式会社」を資本金18万円で創立した
本社を東京に置き、大阪をはじめ札幌・仙台・名古屋・広島・福岡・京城・大連・台湾・新京・奉天・北京・上海各地に出張所を設けた




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