タイガー計算器のあゆみ その2



第二時大戦が勃発、我社にとっても受難を意味する以外の何物でもなかった。
計算器製造は不急の事業であると、労務・資材両面から創業が圧迫させられただけでなく、軍需工場への転換さえ強要された。
大本社長の発明家としての人格・信念はこれに屈することなく、終戦まで計算器の生産をどうにか続けることが出来た。


   昭和14年4月米国万国博覧会にて


昭和20年には入ると、米空軍機の空襲を受け大阪支店をはじめ、神戸・名古屋・仙台・広島の各出張所は焼失し、東京本社も被害を受けた。また、敗戦によって外地の出張所(京城・大連・台湾・新京・奉天・北京・上海)を剥奪されてしまった。




                                 昭和12年2月秩父宮殿下 ご台臨


昭和20年8月廃墟に平和がよみがえった。
復旧は迅速に行なわれ、昭和22年には出張所は全部復興した。
販売会社の本社も新築の東京都中央区銀座西二町目ウェストギンザビルに移転。業務を再開した。

資本金も昭和23年11月増資を続け、昭和45年
タイガー計算器     6千万円
タイガー計算器販売  3千万円 となる。


   昭和28年計算器本社事務所
















   昭和28年計算器工場内部




 昭和28年 当時の製品










   昭和39年トランジスタ式電卓が発売され、昭和41年にはICを使った電卓が登場。
   昭和44年LSIを使った電卓が登場。
   昭和45年タイガー手廻計算器は惜しまれつつも製造を完了した。
   最終価格は、昭和28年からの3万5千円を守り通し、物価の優等生でもあった。


戻る 上へ 次へ

手廻し計算器トップページへ